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父の日に寄せて -おやじの話ー ⑩

前回までの話

―志願―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー/

―大和乗艦―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せてーおやじの話ー /

―大和艦内での生活―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

―レイテ沖海戦―https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

―大和最後の出航― https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

―沈みゆく大和―前編https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

―沈みゆく大和―後編https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

―生還―前編https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

―生還―後編https://www.pal-ds.net/父の日に寄せて -おやじの話ー /

 

―終戦―

 

八月六日、呉郊外の山中にて擬砲建設中に、地響きのような音がした。

その後、広島方面にキノコ雲が上がるのを目撃した。

 

 

 

 

そして、終戦を迎えた。

 

 

ラジオで天皇陛下の玉音放送を聞き敗戦を知った時、とても悲しく悔しかった。

 

戦友達の為にもアメリカ軍を絶対に許さないと心に誓った。

 

 

 

実家に戻った私を母は強く抱きしめて涙を流した。

 

戦死したと思っていた息子の帰還に家族みんなが喜んだ。

 

 

その後私は、元大和乗組員で結成された「大和会」のメンバーとともに、乗員名簿の住所をたよりに家々を回り、ご家族に大和の最後を話してきた。

 

ご遺族の中には、戦死の通知が届いた日を息子さんの命日にされる方もいらした。

 

生き残ってしまったという少し後ろめたいような気持ちもあったのだが、ご遺族は皆私たちの訪問を歓迎してくれた。

 

 

私は大和が沈んだ四月七日を第二の誕生日だと思っている。

 

昭和二十年のあの日、私は一度死んで、そしてまた新しく生まれたと思っている。

 

その第二の誕生日に戦死した多くの戦友達を思って、毎日朝夕冥福を祈っている。

 

私には当時の上層部の人達の考えや実態はわからない。

しかし、戦争は多くの尊い命を奪った。

 

山本五十六長官はそもそもアメリカと戦っても勝ち目はないと判っていたから戦争に反対していたと聞く。

私たちがそのことを知ったのはずっと後になってからだ。

 

それを当初から知っていた人たちに対する怒りは持っている。

 

しかし、どんなに無駄な戦争であったとしても、戦友たちの死は決して無駄死にではなく、皆お国の為に名誉の死を遂げたのだ。

 

彼らのお蔭で私たちは生きていると思っている。

 

 

昭和二十年四月七日、

私は北緯三十度二十二分、東経百二十八度四分の海に、私の青春も、様々な想いも、多くの友と共に送ったのだ。

 

 

 

 

その後、父は戦争の悲惨さを多くの人に伝える活動をつづけた。

 

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

M.

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